秀吉の無理難題をこなせたから

天正15(1587)年、官兵衛42歳のときに、秀吉は官兵衛に新たな領地を支給する宛行状を発給しています。これによって、官兵衛は豊前国内8郡のうち、仲津、宇佐などの6郡を所有することになります。詳細な石高は明らかになっていませんが、推定12万石。それまでの官兵衛の領地が5万石程度ですから、倍以上の領地を秀吉は与えたわけです。それだけ官兵衛の仕事を評価していたということです。

私は官兵衛なくして、九州は取れなかったのではないかと思っています。もっともこの件に関しては、秀吉は官兵衛にさらに高い身分を与えようとしていたという話があるのですが、それについては、後述しましょう。

今私は、上司からの命令を確実に遂行できる人物だと言いましたが、その命令の中に、無理難題が極めて多かったことは、想像に難くありません。秀吉にしても、それが無理難題であることはわかっていたと思います。普通の武将なら、命じられたことの2割、3割も実現できればいいほうだったかもしれない。官兵衛が実現したのはそういう命令でした。だから、命じた側からすれば「こいつはできるやつだ」ということになる。

最後に頼られる交渉役

官兵衛がどんな戦をしたか、いかにして勝利を収めたか。その戦術などを含めた具体的な内容は、残念ながら確実な史料としては残っていません。ただし、状況証拠として、秀吉や信長からの感状がたくさん残っています。感状とは、主君が家臣の戦功を褒める書状です。信長も秀吉も、官兵衛のことをほとんど激賞しています。官兵衛はいわゆる軍師ではなかったけれど、彼が戦上手で軍略に長けた武将であり、卓越した軍事的指揮官だったことは疑いない。

さらに言えば、戦のみならず交渉事においても、官兵衛は極めて優れた手腕の持ち主でした。戦国時代のドラマや映画を見ていると、武将たちは連日連夜戦をしていたかのようですが、実際には戦よりむしろ交渉事のほうが多かったわけです。その交渉においても、官兵衛は実力を遺憾なく発揮しています。