西郷隆盛が流刑時に愛読した儒学者の本

西郷隆盛も左遷をバネに生きた幕末の人物である。生まれは、薩摩藩の下級武士の家。名君、島津斉彬に見出されたことで藩の改革などを指揮し、その実力を発揮したものの、斉彬亡き後の久光に疎んじられ、30代の6年間を奄美大島、沖永良部島に流刑となる。通常なら、そのまま人生を終えてしまうところだろうが、そうはならない。

西郷の薩摩藩の中での人望は極めて厚く、呼び戻されるのだ。実は、島流しのとき西郷は、儒学者・佐藤一斎の『言志四録』を持っていったといわれる。この書物は佐藤の哲学、思想、人生観を朱子学に基づき著した1133条からなる言行録だが、西郷はそのうち101条分を選んで携帯し、島流しされていた数年間に何百回も読み、それを自らの体の中に叩き込んだといわれる。

その後、薩長連合軍を率いて明治維新において大いなる貢献をしたのは周知の通り。前出の木戸孝允、大久保利通と共に維新の三傑といわれている。

一方、時代を遡った戦国時代にも逆境に打ち克つツワモノはいた。

前田利家(幼名は犬千代)は若年期、かぶき者として知られ、豪奢な槍を担ぎ派手な柄の衣装をまとい、短気で喧嘩っ早い性格だったと言われる。

やがて信長が織田家当主となると、一兵卒として従軍。その槍の腕前を存分に発揮して功を立て、敵軍から恐れられるようになる。

ところが、信長にかわいがられていたある茶坊主が、家臣の人事にも口を出すなど目障りな言動をしていたことに利家は怒り、その茶坊主を斬って殺してしまう。これに対し、信長は「自分の権限を侵した」として、「利家を召し放せ」とクビにした。結果、浪人同然のあてのない暮らしを送ることとなるのだ。信長側近というポジションを失い、茫然自失の利家……。

「その後、利家は信長に再び認められ復権できたのですが、そのキーマンとなったのが先輩・柴田勝家でした。利家は『名将言行録』という本に自分の心境を述べています。人が不遇な状況に陥ったとき、同僚たちは4通りの反応をしめした、と。その中に、敗者復活のヒントが隠されていたのです」

4通りの反応の1つ目は、普段から俺を憎んでいて「いい気味だ、ざまあ見ろ」と罵るタイプ。2つ目は、「あなたとは距離を置きたい」と伝えてくるタイプで、それまで利家が面倒を見ていた家臣などがこれにあたる。3つ目は、利家の心の中に、信長さまへの憎悪があるかどうかを探りにくるタイプ。4つ目は、利家が浪人になっても変わることなく付き合い、何とか苦境から引き上げようと努めるタイプ。

「勝家はこの4つ目のタイプで、利家に『決して信長さまを恨んではいけない』とアドバイスしたうえで、桶狭間での合戦に密かに参加させて手柄を取らせました。そのことで、無事帰参できたのです。利家自身、逆境に置かれたときに慌てふためき、感情にかられて行動せずにクールに沈思黙考したところが功を奏しました。そして敗者復活のためには勝家のような先輩の存在が不可欠なのは言うまでもありません」

(キッチンミノル=撮影)
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