大久保から学ぶべき第一の点は、彼の最も大きな特徴である粘り強さです。

大久保は、実は頭はそんなにいいほうではない。素晴らしい夢を掲げたわけでもない。理念はしょっちゅう変わる。しかし、「こういうことをやろう」と一度目標を決めると、曲がって、曲がって、曲がりくねって、妥協すべきは妥協して、しかし何としてでも目的を達成しようとした。この特徴は西郷にも、木戸にも、もしかすると坂本龍馬にもなかった。

この粘り強さは、彼の活躍が始まる初期段階からみることができます。

大久保の謹慎中当事、薩摩藩主は島津斉彬でした。斉彬は名君で、諸外国からの圧力を排斥しようとする攘夷論が全国的に高まる中、すでに殖産興業を唱えていた。開物館という研究所をつくって洋学を研究したり、集成館という従業員1300人以上の大工場を建て、製鉄や武器、ガラス、パン、写真術などの実験・製造を行うなど西洋化の先端を切ってきました。

謹慎が解け、藩政に復帰した大久保は斉彬の事業を手伝う中、「開国派」として目覚めていきます。この頃はまだ端役で、藩政の中枢には入っていません。

しかし、斉彬は志半ばで急死し、一時的に薩摩藩の勢いも急落してしまう。斉彬に代わってトップの座に就いたのが弟の久光です。大久保にしてみれば、力を得るには久光に近づくしかない。しかし、大久保と久光とでは身分が違いすぎ、何の繋がりもなかった。

面白いのはここからです。大久保は、囲碁好きの久光が吉祥院というお寺の住職のところに碁を打ちに行くことを知り、この住職に囲碁の教授をお願いした。さらに、久光が読みたがっていた国学者・平田篤胤の『古史伝』を友人から借りて住職に渡した。こうして「面白い男がいる」と久光に紹介され、パイプができた。この辺が、曲がってもくねっても目的を達成する大久保らしいところ。西郷なら、こんなことは絶対やらないでしょう。

久光に認められた大久保は、勘定方小頭格になった。これはすごい大出世です。このとき、31歳。20歳で謹慎処分になった大久保は、ようやく久光に通じるようになると、「斉彬様はこうやった、ああやった」などとけしかけ、久光を引っ張っていくようになる。大久保の活躍はここから始まります。

(構成=西川修一 撮影=的野弘路)