2014年6月20日(金)

「新宿中村屋」の隠し味“煎じマサラ”

dancyu 2012年8月号

文・水野仁輔 撮影・岡本 寿 教える人:二宮 健(「新宿中村屋」総料理長兼チーフテイスター)

中村屋純印度式カリー。カリーの総量に対し、1.5%加える煎じマサラが隠し味。清涼感ある香りとほのかな苦味が、チキンカリーの深みを増している。

日本初のインドカリーには、“煎じマサラ”と呼ばれる秘密の隠し味が使われていた。85年以上親しまれてきた「新宿中村屋」のカリーの正体が、ついに明かされる。ちょっとした事件である。

とろりとして黒く濁ったソースをひとなめすると、ほろ苦い薬のような香りが鼻から抜けた。インド料理の香りづけはパウダー状のガラムマサラが代表だが、香りと味により深みを増して、より強力に凝縮させたようなものが、液状の煎じマサラだ。何をどうしたらこの摩訶不思議なソースができるのだろうか。

「『中村屋』のカリーを生んだラス・ビハリ・ボース氏が伝えた技術なんですが、口伝だったため、正確なレシピがどこにも残されていないんです。スパイスを煮入れていた、と聞いただけでした」

わずかな手掛かりをもとに総料理長の二宮さんは再現を試みた。漢方の書物を読み、その手法に基づいてガラムマサラと同様のホールスパイスを煎じてみる。

「確かに黒いソースができた。カリーに入れたらおいしかったんです」

スパイスの配合を調整したり、油を加えたりといった改良を重ね、煎じマサラのレシピは平成9年にようやく完成した。

時間も混ぜ方も変えてスパイスを活性化する驚異の「中村屋」式焙煎。1種類ずつ煎っては水の中に加えていく。

調理場へ入ると、7種のホールスパイスと中華鍋が用意されていた。心待ちにしていた煎じマサラクッキングだ。使うのはなじみ深いスパイスばかりだが、その焙煎方法は目を見張るものだった。

ごく弱火にかけた中華鍋に鮮やかな黄緑色のカルダモンが入ると、手でなでるように混ぜていく。焙煎の度合いは手に伝わる温度で見極めるのが一番正確だという。熱が入るとスパイスの香りは際立ち、シャリシャリと軽い音を立て始めた。

「スパイスは香りの出る温度が違いますから、個別に火入れをするんです」

スパイスごとにサイズや形状が違うから、手の動きも微妙に変わる。繊細に根気よく繰り返した後、水と一緒に煎じていくのだ。油を加えることで油溶性のエッセンシャルオイルを効率よく抽出できるという。穏やかで丁寧な動きとは裏腹に強く重層的な香りが立ち上る。すべてのプロセスが香りを操る儀式のようだ。

煎じた後、蒸らして漉すと、6.5リットルの水とスパイスが煮詰まって総量は約3リットルに。色素が十分に出て深く色づいている。

煎じて、蒸らしておよそ2時間。いつしかスパイスの色素は水に溶け出し、見事な色の煎じマサラが完成。カリーの深い味わいを演出する最強の隠し味である。

アーユルヴェーダを学んだ二宮さんは、スパイスを煎じるという手法がインドの家庭料理に基づくものだと知った。かつてボース氏は、「インドの食事はアーユルヴェーダが不文律である」と話したらしいが、煎じマサラ入りのカリーがまさにその言葉を体現し、今に伝えている。

「中村屋」の伝家の宝刀を知ってしまった。その喜びに思わず武者震いがする。

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水野 仁輔