でもね――と彼は言うのである。

「作っている自分たちがワクワク、ドキドキしていないんだ。こんなのが売れちゃって、ホンダの商品はこれでいいのかよ、ってすごく疑問に思っていた」

1978年に入社した野中にとって、ホンダは紛れもなく「挑戦」の会社だった。入社5年後にF1へのエンジン供給が始まり、5年連続でコンストラクターズチャンピオンを獲得した時代。モータースポーツの最高峰の舞台で技術と人材が磨かれた黄金期に、若手エンジニアとして自ら金型屋に通い、図面の描き方から仕事を学んできたのだ。

ものづくりの挑戦には成功もあれば失敗もある。彼にとってホンダとは、その失敗を恐れずに新しい製品を生み出し、新たな喜びを社会に提供することをアイデンティティとすべき会社だった。

「ホンダっていうのはこんなもんじゃなくてさ、もっとエモーショナルで、もっと感情的なところで面白いクルマを生み出そうとしてさ……」

だが、この時期の彼はその言葉をことあるごとにのみ込んだ。「ホンダっていうのはさ――」の後に続けようとする言葉が、好調な売り上げによってかき消されてしまったからだ。

4年ぶりの日本には「武器」がなかった

本田技研工業 常務執行役員 
野中俊彦

野中俊彦がアメリカの研究所から日本に呼び戻され、栃木県の四輪R&Dセンターのトップになったのは2009年10月のことだった。6月に事実上の同期入社である伊東が、研究所に続いて本田技研工業の社長に就任し、前年にアメリカから始まった金融危機の対応に追われていた。

野中は4年ぶりに栃木の研究所へ戻るに当たって、伊東と次のように問題意識を共有した。

「まずは武器をつくろう。武器がなければ戦えねぇ」

リーマンショック以後のアメリカ市場では、欧米メーカーが次々と小型車を投入しつつあった。各社が前面に押し出してきたのは、小排気量エンジンにターボを組み合わせる「ダウンサイジング・ターボ」や「DCT(デュアル・クラッチ・トランスミッション)」といった技術のトレンドだった。