相手を不快にさせない

懐石辻留 店主 辻 義一●1933年生まれ。明治時代からの懐石料理の老舗「辻留」3代目。15歳で料理の道を志し、20歳で北大路魯山人のもとで修業する。
「堅苦しい“型”より、相手に安心感を与えるのがマナーです」

懐石料理をはじめ、格式ある日本料理店の場合。様々な決まり事でさぞかし緊張を強いられるのだろうと想像していたが「辻留」の辻さんが繰り返したのは、「こうでなきゃいけない、というのはないんですよ」ということ。もちろん、本式の茶懐石のように「型」を重んじる席とは別の話だが、必要以上に緊張すると、それがかえって失態に繋がることもある。

「そもそもマナーは、人をハラハラさせない、安心感を与えるためのものです。相手を不快にさせないことを意識するのが大事で、これはこうしなきゃいけない、ということではありません」

わかりやすいのが、コースの中でも花形料理といえる椀物。店が一番に力を入れる出汁を味わう料理だ。この日の椀だねは蛤の真丈。すぐに箸をつけたくなるが、崩して汁を濁らせてしまう前に、まずは一口、出汁そのものを味わうのがエチケット。妻や彼女が作った料理を、一口も味を見ずにいきなり七味唐辛子や醤油をかけているような人は、特に気をつけよう。

様々な食材を盛り込んだ突き出しや炊き合わせも、どんな順序で食べれば一番おいしく楽しめるかを考えることが大切。いきなり味の濃いものから手をつけたら、後から野菜など淡泊なものを食べても、その繊細な味がわからなくなってしまう。絶対の決まり事ではないが、そうした心持ち一つで、相手も自分も気持ちよく過ごせる。

さらに、日本料理は数々の高価な器も楽しみの一つ。お椀の蓋を戻すときは、塗りが傷つかないよう、目の前に置かれたときと同じ状態に戻す。陶磁器も、上げ下げするときには両手を使って、カチカチと余計な音をさせないように。乱暴な扱いは、店の人をハラハラさせると同時に、同席者の目にも不快に思われるはずだ。