「せがれだから、やったのよ」

東海大相模時代、貢と辰徳はメディアから“父子鷹”と呼ばれたが、貢の指導は尋常ならざるもので、“鬼監督”、“鬼父”と呼ぶにふさわしいものだった。

神奈川大会が近づいた1976年夏のある日、貢がノックをしていると、三塁の定位置にいた辰徳の姿が視界に入った。高校生活最後の夏を迎えた辰徳は、何を思うのか、腕組みをして虚空を見上げていた。その姿が貢の癇に障ったのである。

辰徳は1年夏から3回も甲子園に出場し、通算打率は4割を誇り、2年春のセンバツでは、決勝の高知戦で左中間最深部に特大アーチを架け、バットマンとしての評価を不動のものにしていた。

辰徳の姿に驕りを感じた貢は、

「なんだ、その態度は!」

と叫び、ノックバットを投げつけると、辰徳に突進。右手の拳で辰徳をブッ飛ばした。倒れ込んだ辰徳に、なおも足蹴りを加え、下腹部にスパイクをめり込ませ、辰徳が失禁したほどだった。グラウンドにいた選手たちが凍り付いたのはいうまでもない。

貢の怒りはそれで収まらなかった。ノックバットを再び手にすると、声を荒げた。

「グラブを外せ!」

辰徳をホームベースから5メートル先の三塁方向に立たせ、ノックを見舞ったのである。辰徳が素手で捕球しそこなうと、硬球が体にめり込み、全身が痣だらけになった。辛抱強い辰徳だったが、至近距離から千本ノックを浴び、「殺されるかもしれない」と思った。

なぜ辰徳に狂気の千本ノックを見舞ったのかと貢に尋ねると、答えはそっけなかった。

「せがれだから、やったのよ。ほかの選手にはやりゃしねえ」

選手たちに緊張感を持たせるため、あえて辰徳を生贄にしたというのである。

神奈川大会を圧勝し、優勝候補筆頭として甲子園に乗り込んだ東海大相模だったが、2回戦で小山(栃木)の右腕、黒田光弘の変幻自在な投球に翻弄され、0対1で敗れている。

辰徳も4打席ノーヒットに終わり、「高校生活最後の打席は何としても塁に出たかった」と、目頭を熱くしていた。彼が人前で見せた初めての涙であった。

報道陣がインタビュー通路から去ると、貢は辰徳にぽつりと本音を吐いた。

「おまえも辛かっただろうけど、おれだってきつかったんだぞ……」

その言葉を聞いた瞬間、辰徳は過去のわだかまりが消え、再び体を大きく震わせたのであった。

【原辰徳監督 レギュラーシーズン通算成績】
 1434試合 795勝585敗54引き分け 勝率5割7分6厘(2013年末現在)

(文中敬称略)※日曜日更新。次回は星野仙一監督

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