『アーネスト・サトウ日記抄』を読むと、最後の将軍となった徳川(一橋)慶喜について、激動の時代を動かしていた人々の慶喜評が記されている。

「将軍慶喜の動止を視るに、果断勇決、志望また小ならざる様(略)軽視すべからざる一の頸敵と存じ候」(岩倉具視)

「一橋胆略決して侮るべからず。若もしいまにして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せられることあらば、じつに家康の再生を見るが如し」(桂小五郎)

「ゆたかな才能、端麗な容姿、優雅な物腰、31歳の若さの彼以外に変化する環境に対して適応できる政治家はいない」(英公使パークス)

慶喜の登場が、西郷をはじめとする倒幕派に危機意識をもたらし、革命の機を早めたのだといわれる。維新を推進する側に警戒心を与え、諸外国の公使を魅せた慶喜と、幕府崩壊の後、明治という時代を支えた明治天皇について、人間としての二人を、つぶさに比べてみたくなるのは、時代を隔てた私たちにとっても、興味深い誘惑である。

明治維新という革命によってつくられた体制に、若くしてトップに据えられ、日清、日露という戦争を経て、明治という時代精神を体現した人物が明治天皇といって間違いないだろう。

この時代については、語りつくされたほどの資料や著作があるのだが、明治天皇について、とくにその人物については、公的な文書を除くと謎に包まれたままのようだ。ドナルド・キーン氏の大著『明治天皇』を読むのがなによりだと思うが、これは、明治天皇を軸として、明治という時代そのものを俯瞰する試みとして読むべきものだろう。

本書は、『明治天皇』を読んでも見えてこない「近代の国民国家づくりの過程で明治天皇の『人間』的努力を発見する」ことが動機で書かれたという。

さて、明治天皇その人の肉声を聞こうという本書は、その試みに成功したのだろうか。

乃木希典や西郷隆盛と明治天皇とのお互いの琴線に響く話、先生に当たる元田永孚、政治家としての大久保利通、伊藤博文に対する信頼、陸奥宗光や大隈重信に対する不信、改めて、筆者の重ねる挿話の集積の脈絡で読むと、明治天皇の肉声らしきものに出合い、凡々たる一読者としては、一気に読み通すほど興味深かった。だが、明治天皇その人の核となる人としての彫琢されたかたちが見えてこないだけに、深い感動には至らなかったのが、正直なところである。

天皇の肉声としては、むしろ日露戦争の折に詠まれたという歌が、いつまでも記憶に残った。

こらはみな軍のにはに
いではてて
翁やひとり山田もるらむ

まさに、「日露戦争が民族の生存を賭けた戦いであるという思いで、上下一致していた」のであろう。国として、その形すら消えかけている現状の政治を眺めざるをえない今、手にとってほしい本であることはまちがいない。