ソフトバンク元取締役 
笠井和彦

1937年生まれ。59年香川大学経済学部卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)入行。為替ディーリングで実績を上げ、ニューヨーク支店長などを歴任。90年常務、91年専務、92年副頭取。98年安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)会長。2000年ソフトバンク取締役。05年福岡ソフトバンクホークス社長兼オーナー代行。13年10月21日、肺カルチノイドにより逝去。

笠井さんとの出会い、思い出します。当時の富士銀行で、笠井さんが副頭取を務めておられるとき、皆さん私にいろんな質問を投げてくださるんですが、笠井さんの質問というのは、かなりいいところをグサッとついてくるものでした。でも、僕がその質問に対してお答えをすると、とっても明るい笑顔で、「そうですよね」と、すごく励ましながら、僕の話をうなずいて聞いてくださいました。

その笑顔が忘れられなくて、笠井さんも、もうじき銀行を定年で終えられるということを聞きましたので、すぐに電話をして、「笠井さん、会ってください。ぜひ、わが社に入って、私どもを応援してください、支えてください」とお願いをしました。笠井さんは、すぐその場で、「考えてみましょう」と返事をしてくださいました。

当時は多くの銀行の仲間の方々から、「ソフトバンク、そんな会社にいって大丈夫か」というふうに止められたと聞いております。確かにその当時のわが社は、まだまだ危なっかしくて、またネットバブルがちょうど崩壊しようというときでした。笠井さんにせっかく来ていただいたのに、その直後にネットバブルが崩壊し、わが社の株価は100分の1になり、業績もがたがたになりました。本当に申し訳なかったと感じました。そのまま銀行のグループの中で過ごしておられれば、晩節を汚すことなく済んだであろうに、わが社に来ていただいた。そのせいで笠井さんのビジネスマンとしての最後を汚してしまうんじゃないか、と。とても気がかりでした。

でも、いささかも笠井さんは、そんなことを気にもせずに、「ソフトバンクに決めます、いきましょう」と、言ってくださいました。実際に「ヤフーBB」を始めたとき、年間1000億円の赤字を4年も続けました。これも売らなきゃいけない、あれも売らなきゃいけない、という状況でした。でも笠井さんは、「大丈夫です、いけますよ。いきましょう」と。僕がいろいろと事業計画で思い悩んでいても、動じることなく応援してくれました。一緒に力を合わせて戦ってくれました。