不謹慎だ! と言いたいだけ

ネット上の炎上も同じような構造だと思う。ネット上での意見の食い違いは有意義な議論の入り口にもなり得るのに、「炎上=罪」という決めつけが発言の内容自体を精査することを阻んで、ただの祭りになってしまう。少し前に無印良品のふかひれスープに対して販売停止を呼びかける運動がネット発で起こったが、良品計画が、ヒレだけ取って捨てるという残酷な漁はしておらず、乱獲もしていないということを数字も入れてきちんと説明したらあっけなくおさまった。実は真っ当な議論になると案外ネット上で拡散されない。

要は「不謹慎だ!」と言いたいだけで、暇な人がネット上で「なんとなくけしからん」対象を見つけてきて叩くケースが増えているように思う。叩くことが目的なので、それが本当に悪いことだったのか、なぜよくないのか、どうしたら正せるのか、というところまで検証することはない。今回のオリンピックの最中に、メダリストがメダルを噛むのは不謹慎、という意見もあったが、なぜメダルを噛む習慣があるのか、なぜ噛むのはよくないのか、そもそもメダルは誰のものなのかというところまで掘り下げて考えてみよう、という流れにはなかなかならない。ちなみに僕の立場は、メダルは選手のものであり、自由にすればいい、というものだ。

この件に関してぜひ読んでもらいたいのは、JOCのサイトにあるオリンピズムについての解説だ。オリンピック憲章では、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めていて、国別のメダルランキング表の作成も禁じている、また、メダルを噛ませるのはメディアが悪いという意見もあったが、メダルを噛む事を始めたのはそもそも海外メディアだった。ところがネットでは国内メディアには苦情が集まったが、海外メディアに対して意見を言っている人はほとんどいなかった。

企業が叩かれる場合も、何が問題なのかが議論される前に「けしからん!」という空気が広がってしまい、企業側はとりあえず炎上を収めるために「ご迷惑をおかけしました」と謝って幕引きしてしまう。リスクマネジメントとしては正しいのかもしれないが、こういう空気にはある種の全体主義的な危うさを感じる。理由があってやっていることでも、叩かれたら説明する前に悪かったと認めてしまう。芸術表現やジャーナリズムにおいては、そもそもどこまでやっていいのかという線引きは曖昧なものだ。CMが差別的であるとか、ドラマが倫理的でないとかというのは、ある程度は感性の問題である。それゆえに、批判されたら反論しにくい。

批判されたテレビドラマや、放送とりやめになったCMなどを見てみるとたしかにきわどいところはあるが、ジャーナリズムにしても芸術にしても善悪の境目を攻めにあるタブーに斬りこみ、人の心をざわつかせることで真価を発揮するようなところがある。もしやりすぎて向こう側に転がってしまったとき、社会的制裁に近いレベルの罰が待っているとなると、そのリスクを取ってまで挑戦する人は減ると思う。ものを表現する人たちが自己規制をかけるようになると、創造性とか、突出した個性は育たなくなるだろう。教育の現場では、自分らしくとか、創造性を豊かに、と言っている一方で、社会が共有している空気があまりにズレているように思う。

疑問を呈したり、怒りを表現したりする前に、何度もフィルターをかけて、「これはほんとうに出して大丈夫なものか」を問うていたら、結局何を伝えたいのかわからなくなっていく。自分の視点や感情を1回他社の目で見て修正してマイルドにした形で出すとなると、どうしても先鋭的なものは出にくくなる商品や番組のボイコット騒ぎが起こるたびに、「こういうことはしちゃいけないんだな」という学習を重ねて、誰にも批判されない、万人受けするものしか作らなくなっていくと、ジャーナリスティックなセンスもクリエイティブなセンスも先細っていくのではないか。誰もが傷つかないように気を使う社会は、表現の自由に対しては不寛容な社会である。社会が不寛容である以上、多様性も個性も尖った才能も成り立たない。