本当に五輪で選手を勝たせたかったら……

ある社会心理学の実験で、木を切るなどの単純作業に関してはインセンティブや罰が大きいほうが効果が大きく、考えて体を動かさないとできないような複雑なこと関しては、インセンティブや罰が大きすぎるとパフォーマンスが落ちるという結果が出た。つまり素振りでは、やった回数によって報酬をあげたり、罰則を設けたりする方法が効くけれども、本番の試合でそれをやると逆にパフォーマンスは下がるということだ。

行動経済学者ダン・アリエリーが行った実験でも面白い結果が出ている。被験者にゲームやらせて、勝った場合のボーナスに「安い、普通、かなり高い」というような差をつけた。最もいい結果を出したのは「普通のボーナス」を与えたグループだった。期待というのは報酬でもあり、罰でもある。期待されて嬉しくない人はいないだろう。期待に応えれば賞賛も大きい。しかし、期待を裏切った場合には失望や批判といった罰がある。強すぎる期待は逆効果になる場合がある。

とはいっても、周囲が応援したり期待したりするのを止めることはできないので、この状態を解決するには選手側の心理を変えるしかない。極端な話、オリンピック前の1カ月間、選手を国外に連れて行って、インターネットもテレビも禁止にして「たかがオリンピックだ、楽しんでくればいい」という雰囲気のなかで過ごさせる。そのあと伸び伸びと自分の勝負をしてもらえば、結果的にメダル数は増えるのではないかという気がする。みんなの期待に応えなさいという教育で育った真面目な選手と、期待が大きい社会がセットになると、その重圧はとてつもない大きさになる。

オリンピックという特別な機会を除いても、日本は「期待」社会なのだと思うことがある。そもそも欧米はサービスをチップで評価し、日本は心付けでサービスを期待する。お互いの期待が相互に絡み合っている社会ではないか。僕がソーシャルメディアを使って発信したり、テレビに出たりしていると、「陸上選手なのに」とか、「スポーツ選手なのに」とか、現役時代のイメージを重ねてきて、「なのに、なんでこうなったの?」という反応をしてくる人が少なくない。僕にずっと第一線で陸上と「だけ」かかわっていてほしい、次のメダリストを育ててほしい、という「期待」があるのだろう。

自分と他者に対する上手な期待の持ち方を教えてくれる、為末大氏の著作『諦める力』。全国から「今読めてよかった」の声が続々。

『諦める力』と言う本を書いた時も、はじめのうちはタイトルだけ見て「スポーツ選手が『諦める』なんていう言葉を使っちゃだめだ」というお叱りを受けたりした。最近は「よくぞ言ってくれた」というポジティブなものに変わってきた。それは本をきちんと読んでくれる人が増えたこともあるだろうが、僕の以前の役割が終わりつつあるということも感じている。僕を「スポーツの人」として認識する人が減って、徐々に許容されていくのかもしれない。

乙武洋匡さんがあるインタビューで、自分は小さい時から普通のこと同じことをするだけで褒められてきた、と話していた。字を書いたり、ボールを投げたり、歩いたりするだけで自分だけがなぜ褒められるのか不思議に思っていたと言う。乙武さんは、それは「障害のある人は普通のことができない」という期待があるからだと気づいた。逆に、同じ期待の作用によって「障害者のくせにあんなに活躍して」とか「あんなに金持ちになって」などという批判も受けると言う。期待は他者からの「こうあってほしい」という願望だが、同時に「こうあるべき」という抑制にもなる。期待に応えことを最優先していて、ふと一体誰の為に競技をしているのかわからなくなった選手もいた。