為末 大氏

ソチオリンピックが終了した。さまざまな競技を観戦してきて改めて感じたことは、オリンピックでメダルを獲得することに対する世間の期待の大きさだ。多くの五輪選手は、この五輪の瞬間だけ期待値が一気に上がる。期待が大きいということはつまり、周辺の願望の総量が多いということだが、その期待に応える義務はないはずだから、自分が下す決断や結果は、本来リンクしていなくてもいいはずだ。ところが期待に応えられなかったとき、選手は期待はずれとなじられたり、申し訳ないと詫びたりする。

僕はそういう期待のあり方にずっと違和感があった。応援は人の努力や取り組みに対してするものであり、結果に対してするものではないのに対し、期待は結果に対してするものだ。今回のオリンピック中にも思ったが、「応援する」という言葉で期待している人も多い。「応援していたのにがっかりです」と。それは応援でなくて期待である。

誰かに期待するということは、ともすれば自分の願望を押しつけることにもなる。オリンピック中は「悲願のメダル」という言葉もよく聞かれた。ここには手に入っていてしかるべきなのにまだ手に入れられていないというニュアンスがあるが、自分から「悲願の」という言葉を発する選手はまずいない。手に入ってしかるべき、というのは本人よりも周囲の気持ち、いや、期待だろう。期待が強すぎると、期待されたほうは他者の願望を満たすことが目的化してしまう。

僕は、期待にどれだけ縛られているかが勝負強さに関係してくると感じる。もちろん期待に囚われず競技ができる選手もいて、期待をうまくかわせる人は、自分の戦いができる。でも期待を背負いこんでしまう人は、特に、いわゆるいい人に多いのだが、世間の重圧に押しつぶされそうになる。「お家芸」と呼ばれているような種目においては、チーム全体に重苦しい雰囲気が漂う。僕が初めて取材したロンドンオリンピックの柔道がまさにそういう状態だった。

そもそもIOC憲章にあるように、オリンピックは個人の戦いだ。国家の戦いではない。もし国家の戦いであったとしても、負けた責任は個人にはとりきれない。まわりの言うことをちゃんと聞く素直な人ほど、世間の期待にまっとうに向き合って、それで潰れてしまうことは多いように思う。世界的に活躍し続ける選手たちがとてもマイペースだったり、多少わがままに見えたりするのは、世の中の期待は期待として、あくまでも自分のやりたいことに軸を置いているからだろう。