1954年、42歳の誕生日の3日前に、謎めいた死を遂げたイギリスの数学者チューリングは、音楽の世界でいえば、モーツァルトを思い起こす天才だった。彼の死体からはアーモンドの匂いがしたため、青酸カリによる自殺とされたが、いまだにその死は謎に包まれている。

チューリングは、22歳でキングスカレッジの特別研究員となり、23歳のときに発表した論文「計算可能な数について」は、数学界に大きな衝撃を与えた。この論文は、「チューリング・マシン」と自らの名をつけた仮想機械について書かれたものである。チューリング・マシンはスキャナーと無限のメモリー・テープで構成され、自動かつ無限に計算を行うとされる。これは後に、コンピュータの理論的な祖となった。

51年には、ニュートン、アインシュタイン、ガウス、ベッセル、ハーディなどの偉大な科学者や数学者と並んで、ロンドンの王立協会の研究員となる。それほどの栄誉を得た、コンピュータの祖であるはずのチューリングが、「コンピュータの父」という座をフォン・ノイマンに譲っていることに、残念な思いがする。しかし、ノイマンにしてもチューリングにしても、そんなことはどうでもいいに違いない。

チューリングといえば、第二次世界大戦時に、ナチスドイツのエニグマやタニーといった暗号機の電文を解読したことでも知られる。これはある意味、大戦の帰趨を決めるほどの働きであった。

エニグマの暗号解読は、ドイツのUボートに自国の輸送艦が次々と爆沈されていた事態を救った。タニーの解読に成功した後、イギリスはナチスドイツのほぼすべての情報を入手するに至り、ノルマンディー上陸作戦の頃には、今でいうサイバー戦争のように、上陸地点をノルマンディーではなくカレーであると情報攪乱を施すほどであった。その暗号解読のために利用されたのは、チューリングが確立した解読方法をアルゴリズムの基本とした電子計算機「コロッサス」である。

チューリングは、人間の脳とコンピュータについて深い関心をもち、脳のようなネットワーク、仮想的なニューロンのネットワークをつくってシミュレーションを重ねていた。現在では、人口知能を実現するために、コンピュータのシミュレーションを駆使して大規模なニューロンのネットワークの性質を探究しているが、それはチューリングが行っていたのと同じ方法である。そういえば、コンピュータによって初めて楽音を鳴らしたのもチューリングであった。

本書はチューリングという天才の像を、さまざまな視点から照らそうとしたものである。第二次世界大戦下の暗号解読の章はミステリーを読むようでもあり、現在のインターネットの普及によるサイバー戦争を思い浮かべながら読むと、興味が尽きない。