野口は1927年に福岡県で生まれ、戦前・戦中のほとんどを神奈川県横須賀市で過ごした。終戦後、日本医科大学を卒業し、25歳の時に単身で渡米する。アメリカではインターンを経て医師免許を取得し、法医学者になるために必要な病理学を学んだ。そして大学の助教授になったところで、満を持して検視局に入局した。野口は勉学のためにアメリカへ渡ったわけではなかった。当初から法医学で頂点を極める意思を内に秘めてロサンゼルスに降り立ったのだった。

十分に準備を重ね、したたかに計算する

野口の人生から分かるのは、組織の中で勝ち残るには、十分に準備を重ねて、時にはしたたかに計算高くあることが必要だということだ。

野口は検視局に入るまで、さまざまな準備を進めた。まずアメリカの都市部にある検視局を次々と見学して回った。ニューヨーク、マイアミ、ボストン、サンフランシスコ、バージニアなど、アポを事前に取り、30カ所近くを見て歩いたのだ。どれくらいの規模か、設備はどんな様子かなど、慎重に出来る限りの情報収集をした。

とはいえ、彼は優れた検視局を探していたのではない。それなりに大きな規模の都市部の検視局で、どこに行けば自分が早く局長になれるのかを探ったのだ。局長になれば、アメリカで「勝つ」という目標に大きく近づく。管轄する都市と局の規模などを考えると、ロサンゼルス地区検視局がもっとも適当だと考えた。

ロス検視局の局員時代

実はそれと並行して、彼は検視局に出入りしていた医師などからも情報を収集していた。そしてロスの検視局に関しては重要な事実を把握していた。それは当時の局長があと7年で定年退職するという情報だった。7年で局長になるチャンスを得られると考えた野口は、ロスの検視局に入局することを決めた。

入局後も、局長が定年するまでの年月を数えながら、常に自分が局長になった時のことを念頭に置きながら業務に当たった。しかも局長を常に観察して、どんな仕事があり、どんな人たちとやり取りをするのか、そういったことも学び取った。そしてとにかく局長と信頼関係を築き、補佐官がするような秘書の仕事も進んでやった。局長が休暇をとってハワイ旅行に行けば、局員たちが野口のところにやってきて、局長の連絡先を聞くほどだったという。

誤解してほしくないのは、もちろん上司や先輩の顔色をうかがって上手くやっても、検視局という役所においては出世できないことだ。検視局長になるには、超難関である法病理専門医の認定試験をパスし、局長の選抜試験で高得点を得た上で、地区の最高機関である参事会から承認される必要がある。本当の実力勝負である。野口は試験でトップの成績をマークした。また日常的な解剖業務でも、休みを返上して、休みたい同僚のシフトもこなすほど働いた。そうした日常の努力を決して怠らなかったからこそ、彼の「計算」も意味があった。

トーマス・T・野口
1927年福岡生まれ。1951年に日本医科大学を卒業、ローマリンダ大学を経て、1967年にロサンゼルス地区検視局長。全米監察医協会会長などを歴任し、検視局長時代から、南カリフォルニア大学、ローマリンダ大学で法病理学の講師を務める。1982年から南カリフォルニア大学で法病理学と死因捜査の教鞭を執り、1999年から南カリフォルニア大学法病理学名誉教授。現在、米医事法学会の理事会員、世界医事法学会会長、全米監察医協会国際関係委員会委員長、米科学捜査アカデミー国際関係委員など。
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