「国民作家」司馬遼太郎──。彼の手によって描かれた魅力的な群像。激動期を生き抜いたさまざまな「彼」の物語、「もう一つの日本」の物語から、混迷の現代を生きる我々は何を学ぶべきか。司馬文学研究の第一人者が語る。

合理の精神を持った司馬さんから見れば、バブル経済に浮かれていた日本も非常に危ういものに映っていました。銀座の「三愛」付近の土地は、バブルで大きく値上がりして、1坪1億5000万円に達しました。絶筆となったコラム「風塵抄」(産経新聞)では、この狂乱を指して、「こんなものが、資本主義であろうはずがない」と痛烈に批判しています。

司馬さんは絶筆の10年前にも、同じ趣旨の文章を書いています。

「いまの日本の不幸は、土地の本質が商業価値に変化したことである。売れば1坪50万円にも80万円にもなるとされる畑で、農民はそれを百も知りつつ大根やネギを作っているという情況ほど、人間の精神を腐食させるものはない」(『街道をゆく 27』「檮原街道」)

農産物でもっとも収益をあげられるコメでも、坪500円の収益です。100年、コメをつくり続けても5万円です。にもかかわらず、土地を売ると50万円に化けてしまう。これは合理主義と対極にある大虚構、ウソといってもいい。

現実に見えるものをあるがままに見るリアリズムの精神に欠けると、私たちはこうした大虚構の上で踊ることになります。司馬さんは『竜馬がゆく』で幕末変動期の竜馬を描き、高度成長しようとする60年代のビジネスマンに元気を与えました。『坂の上の雲』では、神話を持った国家指導者や戦争指導者が歴史を動かすのではなく、秋山兄弟や子規といった普通の国民が一つひとつ小さな歯車を回しながら国民国家の大きな歯車を回す姿を描き、多くのビジネスマンがそこに企業戦士としての自分を重ね合わせました。ただ、日本は高度成長を経て、膨張した資本主義にからめとられて変容していった。「あるがままを見よ」というメッセージをこめて作品を書いた司馬さんは、結果的に虚構ばかりが膨らんでいく日本の姿に、忸怩たる思いを抱いていた。

当時、司馬さんのほかにも、変わりゆく日本の姿を憂いた作家はいました。「天皇陛下万歳!」と叫んで自決した三島由紀夫です。三島さんは、無機質になっていく日本を嘆き、日本が失った美を天皇という原理の中に見出そうとしました。

司馬さんは自決事件の数時間後に、「異常な三島事件に接して」という文章を書き、毎日新聞に寄稿しました。この中で三島さんの死を「さんたんたる死」と書き、激しい調子で批判しています。普段は温厚な司馬さんが、どうしてここまで過敏に反応したのか。それは変わりゆく日本が回帰すべき原理について、三島さんと司馬さんが180度違う思想を持っていたからにほかなりません。

三島さんは、美としての天皇に日本のあるべき姿を求めました。一方、司馬さんは日本の原理をどこに求めたのか。そのヒントとなるのが、先ほど引用した『街道をゆく』シリーズです。三島事件は70年11月25日に起きました。司馬さんはその1週間か2週間後に、「週刊朝日」に連載する『街道をゆく』の文章を書き始めています。このシリーズで、三島事件に対峙する形で「もう一つの日本」を描こうとしたのではないか。それが私の仮説です。

(構成=村上 敬 撮影=市来朋久、宇佐見利明)