誰かの存在によって自分がこうなる

【山田】いま日本の社会が抱える問題を見ていくと、つまるところ豊かさの基準が高すぎるんじゃないかと思うんです。そんなに豊かじゃなくても、けっこうハッピーに暮らしていける――よく言われますけれども、そういう考えを真面目に生きる風土ができてもいいんじゃないかと感じます。

【玄侑】経済って、もともとは人的交流とか、気持ちの交流とかも含めた複雑なものだったと思うんですけれども、情けないことに、市場経済に一元化されてしまった。お金の原理主義です。

【山田】議論をしても、早く答えを出そう、結論を出そうと急ぎすぎるでしょう。それがいろんなものを害してると思いますね。人との付き合いだって、相手をパッと見て、いい人か悪い人かなんてわかりませんよね。少し歳月をかけて付き合うと、ああ、こういう人なのかとわかってくる。いろいろなことが不安な時代であればこそ、急ぎすぎないほうがいいと思います。

【玄侑】先生はそこで、一緒に歩いてくれる空也上人というものを小説のモチーフになさったわけですね。

【山田】僕は仏教のことはほとんど知らないで書いているので、勝手な願望的幻想なのですけれど。四国のお遍路の「同行二人」、弘法大師と一緒に歩いてるという想像。あれは僕、とても素敵だなと思ったんです。自分だけで始末をつけようと思うと大変だけど、誰か横を歩いてくれている人がいると思うと、少し楽になる。

西洋の自我中心の考え方、たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」ってありますよね。でも、自分だけは確かに存在していて、まわりにいるこれだけありありとした実在感のある人たちを疑わしいと思う感覚って、どうも馴染めません。自分よりずっと濃い存在感に取り囲まれているという意識、心細さのほうにリアリティを感じてしまいます。