日本シリーズを阪神と戦いたい

「大きかった」との言葉通り、評論家を経て89年から務めたヤクルト監督では、長年Bクラスに低迷していたチームを就任3年目の92年にセリーグ制覇。翌93年には日本一に導いた。

しかし、99年から監督に就任した阪神では再び「辛抱」の期間となる。

阪神というチーム結成70年近くの伝統は、私の力をもってしても変えることができなかった。まずタニマチ連中が選手をチヤホヤする。さらに、チームが弱くてもスポーツ紙は阪神の選手を大きく取り上げて甘やかす。自分の力を過信するから、成長というものがない。

1年目が最下位に終わると、私も限界だと思ってシーズン終了後、オーナーに「やめさせてください。自信がありません」と弱音を吐きに行った。

結局3年間やることになったのだけれど、2年目のシーズン当初からスポーツ紙が野村バッシングの論陣を張り、甲子園では「やめろ、やめろ、ノムラ」という大合唱が起こる始末。

当然選手も新聞を読むわけだから、もう監督と選手との関係はグチャグチャ。万策尽きた思いがあった。

しかし、私が後任に推した星野仙一(現・解説者)のもと、彼の持ち前の〝怖さ.から、チームは生まれ変わった。私は優しすぎたのかもしれない。

今年はぜひ阪神タイガースと日本シリーズを戦いたいね。

野村監督が3歳のときに父親が戦死、小学校時代から家計を助けるために新聞配達や家業の手伝いに追われた。

プロ入り前に苦労していた時代、野良仕事を終えての家路、砂浜にひっそり咲く月見草を見て不思議な花だなと思ったことがあった。プロで活躍しても誰にも注目されない自分自身と月見草がいつの日か胸の内で重なった。そこで通算ホームラン600号の談話で使うことに決めた。ただ月見草に対比して王、長嶋を例える花がなかなか思いつかなかった。そこで沙知代(夫人)に聞いたら「ひまわり」がぴったりと即答した。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。もしこの3人の戦国武将を長嶋、王、私にあてはめるのであれば、せっかちなところがある長嶋は織田信長、WBCで優勝し、輝かしい世界記録を持つ王は豊臣秀吉。だとすると私は徳川家康なのか(笑)。

鳴かぬなら
 鳴くまで待とう
 ホトトギス

辛抱強いという点では似ているのかもしれない。

※すべて雑誌掲載当時

(構成・文=松山幸二)