新井先生は、私の洗礼を押しとどめたことで同僚たちから批判されたそうだ。しかし、今振り返ると、この判断は正しかった。この時点では、私はキリスト教よりも新井先生の人格に魅了されていたからだ。そのため、高校1年生のときに新井先生が病死した後、私は教会に行かなくなってしまった。もしあのとき洗礼を受けていれば、これが私の信仰にとって大きな挫折になっていたと思う。

教会から離れた同時期に、私はマルクス主義に惹きつけられた。特に『資本論』の精緻な論理が私の心を捉えた。これは埼玉県立浦和高校時代に知り合った鎌倉孝夫先生(当時、埼玉大学助教授)によるところが大きい。鎌倉先生は、『資本論』を社会主義革命のためのイデオロギー書としてではなく、資本主義社会の内在的論理を解き明かした論理を抽出するテキストとして読むことを教えてくれた。『資本論』を勉強するうちに、子供の頃から教会で教えられてきた、新約聖書「ローマの信徒への手紙」に記されたパウロの以下の言葉が蘇ってきた。

<わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。>(7章15~20節、以下すべて新共同訳)

現実の社会には、労働問題や社会問題がある。また、世界では戦争が絶えたことがない。キリスト教徒は、主観的には善をなそうとしているが、社会構造にある悪を見ようとしない。本当に善を行うためには、神にすがるよりも、マルクス主義理論に基づいて社会構造を分析し、革命を目指すことが正しいように思えた。