すべてを受け入れて、決然として立て!

熊田千佳慕という画家がいました。少年時代から『ファーブル昆虫記』を愛読していた彼は、60歳を過ぎてから『ファーブル昆虫記』の世界を絵画化する仕事に没頭しました。

「恋のセレナーデ」という、交尾寸前の雌雄のコオロギを描いた絵があります。一見、ただの虫の絵です。しかし、この絵とじっと対峙していると、宇宙にこの雌と雄しかいないのだという気がしてくる。このコオロギたちは、いま、ここで無心に生き、そして命を燦然と輝かせている。そのことが、直感的に把握できるのです。

アメリカの高名な臨床心理学者、L・ザルズマンは、フラジャイルな存在である人間が絶えず変化していく環境に適応しようともがくことから不安が生じると喝破しました。明日を案じるから、人間は不安になるのです。

では、不安から逃れるにはどうすればいいのでしょうか。ザルズマンは“here and now”「いま、ここを生きよ」と言いました。私に言わせれば、それは千佳慕の描くコオロギです。彼らは、いま、ここを無心に生きている。

すべてを受け入れて、決然として立て。そして、いま、ここを生きよ。

デューラーの自画像が、千佳慕の描く昆虫たちが、こう私に語りかけてきます。いずれの絵も、決して明るい絵ではありません。しかし、本当の希望は明るさの中からではなく、闇の中から、苦悩の底から生まれてくるのです。

多くの画家が、不幸に満ちた悲惨な人生の中から傑作を生み出したように、日本という国の真価は、この、先の見えない闇の中からこそ輝き始めるのだと私は信じています。

東京大学大学院情報学環教授 姜尚中
1950年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専攻は政治学、政治思想史。著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『日朝関係の克服』『ニッポン・サバイバル』『悩む力』『リーダーは半歩前を歩け』、自伝的作品に『在日』『母-オモニ-』などがある。
(構成=山田清機 撮影=尾関裕士)
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