大胆かつ繊細、未来志向、自分は運がいいと考えている。お金に愛される人だけが知るルールがある。ここでは、アジアを活躍の舞台に選んだ5人を事例に、黄金法則を確認しよう。普通のビジネスマンだった彼らは、どのように考え、行動して、成功への階段を上がったのか。
クロスコープ シンガポール ディレクター 加藤順彦氏

ITバブルに沸いた99年当時、ネットベンチャーが集まる渋谷界隈はビットバレーと呼ばれていた。インターネット広告代理店の日広(現GMO NIKKO)の創業者、加藤順彦はビットバレー盛衰の中心にいた1人でもある。

「祖父は大阪の鋼材問屋で、2度にわたる朝鮮戦争の特需で大儲けしたと聞いています。300坪の大豪邸で、玄関にジャガーが迎えにくるような家でした。はじめて経営者になることを意識したのは、祖父が亡くなった小学5年生のときです。長男の私だけ、葬式で父の隣に並ばされました。1000人を超える弔問客たちが次々とやってきて、はじめて自分の家が普通でないことに気づきました」

商学部を選んで大学に進学するが、座学ばかりですぐに飽きてしまった。サークルにも興味を持てずにいたところ、出会ったのが真田哲弥(現KLab社長)や西山裕之(現GMOインターネット専務)だ。

「2人に声をかけられて、その年の秋に学生に運転免許合宿を販売するビジネスを立ち上げました。当時はバブルで、大学の合格発表会場でビラをまくと、ひっきりなしに電話がかかってきました。振り込まれた代金を確認するために通帳記入にいくと、吸い込まれていつまでも出てこない。ギーガー、ギーガーと響く音を聞いて、商売っておもしろいと」

大学4年のとき、真田らとダイヤルQ2サービスを通して情報提供を行うダイヤルキューネットワークの設立に参画した。だが、成人向け情報提供者によるダイヤルQ2の悪質利用、いわゆるツーショットダイヤルが社会問題化して倒産。

「父の縁故で鉄鋼系商社に就職が決まっていましたが、わざと単位を落として落第。最後の1年は大阪と東京を往復していました。事業は急成長して、90年の末には正社員70人ほどの会社になっていました。倒産は、NTTが悪質業者を排除するための施策を打ち出したことで巻き添えをくらい、資金繰りが急速に悪化したのが原因です。

担当していた事業を徳間書店が引き取ってくれることになり、私も関連会社の社員になりました。ただ、このままでは計画落第までして上京した意味がない。そこへ、広告代理店を立ち上げたら発注すると言ってくれる人が出てきて、雑誌専門の代理店を起業したのです。

ツーショットの広告主を持っていたので売り上げには苦労しませんでした。5年目には年商は16億円に。でも、物足りない思いもありました。ダイヤルQ2サービスをやっていたころは、高度情報社会へと続く未来に向かって仕事をしている感覚があった。それに比べ、こんなイージーなお金儲けでいいのかと。

そのころ普及し始めたのがインターネットでした。95年にウィンドウズ95が発売されると、忘れていた夢が一気によみがえって、次の時代はもうこれしかないと確信しました。それから少しずつインターネットメディアに広告媒体を切り替えましたが、売り上げはガクンと落ちました。ヤフー・ジャパンが始まったのが96年で、当時はトップページに1週間広告を出してもわずか15万円という相場でしたから。でも会社のなかは活気に満ち溢れていました」