伊庭貞剛●1847年、近江国(現滋賀県)生まれ。司法官を経て、79年、現在の銅精錬業を手がける住友(現住友グループ)に入社。1900年、同社の第二代総理事に就任した。

明治は、近世と近代とが不思議な融合を見せた時代である。維新の元勲もそうだが、江戸期に生まれ、基本的な精神を近世的教養によって培われた人々が近代化の牽引役となるという不思議さ。それは経済の世界においても同様で、その奇妙な融合によって、今ではちょっと考えにくい奇跡のような経済人も登場している。伊庭貞剛は、まさにそうした人物であった。

合議制の確立など、住友の近代化に大きく貢献した伊庭であるが、なかでも最大の功績は、別子銅山煙害問題解決への尽力であった。

明治20年代半ば、精錬所が出す亜硫酸ガスが深刻な環境破壊を生み、農民の直訴騒動などに発展していた。一触即発の状況の中で、伊庭は住友の代表者として現地に乗りこみ、問題解決に乗り出す。

彼がまず実行したのは、被害地を歩き回り、人々と交わることだった。破壊の惨状を見ては嘆き、地元住民や鉱山労働者と交わっては彼らの現実に心を痛める。テロの発生さえ不思議ではない状況下で、一個の人間として、彼は誠実の限りを尽くし人々の信頼を得ていく。日本の公害問題史上、特筆すべき行動であった。

しかし、彼は人情だけの人ではなく、経営者としての豪胆さを併せ持ってもいた。

沖合の無人島への精錬所移転しか解決策がないと考えた彼は、個人の名義で島を買い取り、巨費を投じて、これを実現させる。また、荒れ果てた自然を回復するために、年100万本以上の大規模な植林活動にも着手する。近代初期の、法的規制とてない時代に、自浄作用として、いやもっといえば自社の誇りを守るためにこれら驚嘆すべき施策を、伊庭は大胆にも実行していたのである。

伊庭のこうした事跡を、CSR経営の手本とする見方もあるが少し違うだろう。そもそも彼の中では「利益か社会正義か」という二項対立で悩む余地など、まったくなかったからである。

別子銅山煙害問題で見せた伊庭のEQ力
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別子銅山煙害問題で見せた伊庭のEQ力

近江の代官(つまり武士)の息子として生まれ、儒学などの近世的な精神を骨身にしみこませて育った彼にとって、社会正義の重要性は自明のことであった。利を求める己の欲望を自覚し、自らを厳しく律し、人のために誠を尽くすこと。彼にとっては、事業もまた、そうした人倫の道の一部をなすものにすぎなかったのである。

しかし、同時代に生きた人が皆そうであったかといえば、多分違うだろう。近世的な倫理感を捨て去り、利を至上とする生き方に転じた者も数多くいたはずである。その意味では彼はおそらく不器用な「時代遅れの男」であった。

伊庭が、死地に赴く覚悟で別子に旅立つとき、幼馴染みの謡曲師を一緒に連れていったというエピソードがある。その目的は今となってはよくわからないが、近代経済人の尺度では測れない、近世的な風狂の人としての彼の本質を垣間見るような気がする。その過激な自然体こそ、彼の強さの根源ではなかったかと思う。